鳥居塾長 挨拶
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 皆様、こんばんは。品川三田会の発足を心からお祝い申し上げます。本当に私は嬉しゅうございます。今、慶應義塾の塾員、日本国内全国各地、世界各地で活躍しておられる方が約25万6,000人、その方々が構成している三田会が863ありました。きょう誕生した品川三田会が、登録されている三田会で864番目の三田会です。この素晴らしい三田会が生まれましたことを心からお祝いし、そして、皆様がこの集いを素晴らしい集い心からお願いしたいと思います。
 いろんな三田会が楽しく運営しています。来月も、私ロンドンへ行って三田会をやります。チューリッヒにも行きます。ニューヨークにも行きます。いろんなところへ行きます。この前はサンパウロ日帰りというのをやらされて物凄いひどい目に遭いましたが(笑声)、今回も下手するとニューヨークが日帰りになりそうなんですが、とにかく全国各地、世界各地で三田会は素晴らしい集いを続けています。
 よそのいろいろな集まり、例えば皆さんも卒業同期会なんていうのをお持ちだと思います。皆さん苦しんでいる面が反面にあります。それは、会員の登録は最初はいいんですよ。ところが、その登録した人の半分ぐらいが行方不明になって会費を払わなくなると、その人たちに対する通信費だけで会費のほとんどを使っちゃうということになる。ところが、この三田会863を見ているとこれは違うんです。そういうことはまず起こらない。多分、この品川三田会でもこれは起こらないだろうと思います。ぜひ、素晴らしい三田会にしていただきたいと思います。
 いつもですと、全国各地、世界各地の三田会で、私、1時間ぐらい慶應義塾の歴史と、そして現在と将来のことをお話しするんですが、きょうは30分、時間をいただいています。この30分の間に1時間分をお話しいたします。
 まず、「三田会って何だ、慶應義塾の社中の集まりって何だ」ということを、皆さんと振り返ってみたいと思います。我が慶應義塾は、今からちょうど140年前、1858年に誕生しました。それから10年間、慶應義塾には正式の名前はありませんでした。そして、場所は築地の鉄砲洲でした。10年後の1868年4月の23日に芝新銭座、つまり今の御成門の近くに移ってきました。そしてさらにその2年後明治3年、今度は三田山上に正式に校舎が移ってきました。ことしは芝新銭座に移ってからちょうど130年目です。
 今、毎週日曜日に徳川慶喜という大河ドラマをやっていますが、まさにあの時代なんですね。あの時代です。1968年という年は年号は慶応4年でしたが、9月に明治元年となりました。慶応4年であった1868年の最初の頃は、鳥羽・伏見で戦いが起こりました。恐らく、あの日曜日の大河ドラマももう間もなく鳥羽・伏見の戦いに徳川慶喜がどう巻き込まれていったか、彼がそこからどう身をかわしつつ日本を助けたかが放送されるんでしょう。その4月の23日に芝新銭座、正確には、芝神明小学校と今呼ばれている学校がありますが、ちょうどその場所に福澤先生が家を1軒入手され、そこを慶應義塾の校舎として、改めてこの学校に正式の名前をつけました。時の年号をとって「慶應」、そしてその下に、先ほど問題になりました「義塾」という2文字をつけました。
 この「義塾」は、福澤先生が文久2年、ちょうど徳川慶喜が蟄居を許された年ですが、その年に政府の使節団の一員としてヨーロッパ各地を旅行されたときに、イギリスのパブリック・スクールというのをご覧になった。英語堪能とはいえないはずの福澤先生が、実に見事にそのパブリックスクールというものをご覧になった。いい加減にパブリック・スクールを日本語に訳していたら「公立学校」と訳したでしょう。ところが、イギリスのパブリック・スクールは違う。そうではなくて、典型的な私立学校なんです。
 最も典型的な私立学校とは、二つの条件を満たしていなければならない。第一に、鮮明な建学の精神を持っていること。第二に、社会の有志が力を合わせて創立し運営するという性格を持っていること。この二つです。この二つの性格を実に見事に持っているのはイギリスのパブリック・スクールだ。例えばイートンでありラグビーでありハローである。 福澤先生は、お帰りになるとすぐこのパブリック・スクールの訳語をつくりました。それは「共立学校」という4文字でした。暫くの間先生はその「共立学校」という字を使っていましたが、今お話をいたしました1868年、慶応4年でもあり明治元年でもある年の4月の23日に、改めてこのパブック・スクールにかわる言葉を探され、当時の中国の人々がイギリスのパブリック・スクールを義塾という言葉で表しているのを見つけられて、「慶應義塾」という名前を制定されたんです。以来、我々の母校では学生は塾生、卒業生は塾員、そして学校本体と塾生と塾員と3者を一まとめにして、福澤先生は「慶應義塾社中」という呼び方をお始めになりました。我々は社中のメンバーです。福澤先生の定義によれば、社中とは社会的使命を共有するものの集団です。我々は、社会的使命を共有し慶應義塾の創立の精神を共有している集団です。
 その慶應義塾の社中の集まりに対して、福澤先生はいろいろなところで次のように言っておられます。一言で私の言葉に翻訳してしまうと、「慶應義塾社中は生涯にわたる教え合いと助け合いと睦み合いを続けろ、生涯にわたる教え合いと助け合いと睦み合いの集団であれ」ということを、いろいろな機会に繰り返し繰り返し言っておられます。きょうも私は幾つかのその文章を持ってきてみましたが、時間の関係もありますので、ほんの少しだけを読み上げてみますが「社中はあたかも骨肉の兄弟のごとくにして互いに義塾の名を保護し、あるいは労力をもって助け合い、あるいは金をもって助け合い、あるいは時間をもって助け合い、あるいは注意をもって助け合い、命令する者なく、全体の挙動を一つにして、奨励する者なくして……、そして喜楽の間を共にし、喜びも悲しみも共にして、一種独特の気風を持って進んでいけ」。こう言っておられます。
 もう一回繰り返して今日の言葉に直せば、「慶應義塾社中は、生涯にわたる教え合いと助け合いと睦み合いを続けていけばいい」。先ほど、会則の中で「政治抜き、宗教抜き」とお決めいただきましたが、まさにそれもこの先生の精神の表れの一つであろうと私は思います。ぜひ、この品川三田会の集いが生涯にわたる睦み合いの集いであっていただきたいと思います。
 世界中各地の三田会にいくたびに、私は出かける前にいろいろな大学の学長先生に言われます。「先生、資金集めですか」。それからまた、アメリカやヨーロッパの学長同士で話し合いますと、「ファンド・レイジングにいくんですか」「そうじゃないんです。慶應義塾の社中の交わりにいくんです」と言うと、みんな理解できない。「何ですか、それは」と、こう言います。「いや、わかんなくてもいいよ」と言って、僕は説明しないんです。面倒くさいから。要するに、社中の交わりです。そのために私たちは集まる。そういう集いをいつまでも続けたいと思います。
 ところで、慶應義塾の凄さというか歴史に果たした役割の凄さは皆さんは重々御存じだと思いますが、きょうは二つ、三つほど改めてもう一度我が母校の凄味というものを振り返ってみたいと思います。福澤先生は、明治元年でもある先ほど申しました1868年に芝新銭座をつくられた後、明治4年に今度は三田山上に校舎を移されました。もうその頃は明治政府が形成され、そしてその明治政府が新しい国づくりをしていましたが、その国づくりの政治の方向といいましょうか政治体制のつくり方には、福澤先生は賛成はできなかったんです。先生がお考えになっていた政治の体制は、イギリスのように王様、我が国でいえば天皇様を上に頂きながらも憲法をつくり、その憲法に従って国が運行していく。同時に、その運行の中心となるのは衆議を集めた国会でなければならない。こう考えておられました。
 それに対して、岩倉具視を頂点とする明治4年段階の政府は、もう少しプロシャ型の、つまり立憲君主制、まあまあお付き合いで憲法ぐらいはつくるけれども、むしろ君主中心の国という考え方がかなり色濃く出ていたと思います。福澤先生のこの考え方の違いは、先生の鋭い筆と演説によって次第に日本に行き渡っていったと思います。先生は筆で物を書き、また言葉でいろいろな鋭い意見を述べられましたが、そしてそのことにおいて福澤という人は非常に有名ですが、本当は福澤先生の偉さは、言ったことはほとんどすべて実行しようとしたことだと私は思います。
 先生はまず教育の分野、次に官僚制度をつくっていくという領域、それから政治の領域、4番目には実業界、この四つの分野においてすべて実行しようとしました。教育については、まず三田に慶應義塾をおつくりになりましたが、恐らく皆さんあんまり御存じないかもしれませんが、そのほかに全国各地に義塾をつくっていきました。明治3年には、福澤先生のお名前で登録された慶應義塾金沢研修所ができました。明治5年には、福澤先生の名前で登録された大阪慶應義塾ができました。大阪慶應義塾の跡は今歴然とわかっていまして、皆さん、大阪の中之島にあります適塾においでになったら、適塾の玄関を出て右へ向かってあの路地を100メートルほどいきますと、左側に小寺ビルというビルがあります。立派なビルです。その小寺さんという方は塾員ですが、その方の3代前の御先祖が福澤先生にその場所をお貸しくださって、大阪慶應義塾であったわけです。小寺ビルの前には、いずれ何か石でも置かしていただいて、大阪慶應義塾の跡としようと、今考えています。 明治7年には京都慶應義塾がつくられました。京都慶應義塾の跡はこのびょうぶの半分ぐらいの大きさの大きな石碑として今残っていますので、ぜひご覧いただきたいと思います。京都駅から烏丸通りを真っ直ぐ北上いたしますと、右側に京都御所の土塀がずっと続きます。京都御所の土塀を暫く行きますと下立売通という信号がありますので、それを左に曲がっていただいて道路を1本越えたところ、そこが昔から今日までの京都府庁です。その京都府庁の正門を入ったところのすぐ左後ろ、中側にこのびょうぶの半分ぐらいの大きな花崗岩の横長の石が置いてあります。そこには、大きな太い字で「独立自尊 明治7年京都慶應義塾の跡」と刻んでありまして、裏をのぞかれますと、この文字が昭和7年に林毅陸塾長によって刻まれたものであることがわかります。明治7年の京都慶應義塾は、その後明治9年になりますと徳島に移りまして、これも福澤先生の肝いりで徳島慶應義塾ができました。
 またこの頃、ちょうど明治5年には、今まで学校というものがなかった日本の国に、明治政府が学校制度をつくろうとしました。日本全国を八つの大きな学区に分けて大学区、その一つ一つの中を33の中学区に分ける。8×33=264です。あの頃は260の大名がいました。その大名がすべて廃藩置県で藩が県になりました。その260ほどの県の一つ一つに中学を置こうという構想です。そして、その260の中学区、行政区画でいえば県の中に多数の小学校を置くことになりました。
 明治6年には、1万3,000ほどの小学校が誕生しました。そして、そのうちの約36%、4,600ほどが私立の小学校でした。今は日本全国に2万4,300ほどの小学校がありますが、その中に、日本全国で私立小学校は171校しかありません。そして、もう増やすことはできません。どこの都道府県知事も許可をしてくれませんので、小学校は増やせないんです。中学は今日本全国に1万1,300ありますが、私立の中学は明治以来辛うじて生き残ってきた661校しかありません。もう1校でもいいから私立のいい中学校をつくりたいのですが、許可は下りないんです。明治の初めには、福澤先生方の肝いりで、今お話ししたほどの多数の小学校や中学校ができていきました。
 その260の新しく生まれた県につくる県立中学校の先生はどこから調達したか。それは、実は半分ぐらいは慶應義塾で学んで、官界や政界や実業界でもう活躍を始めていた相当力のある人たちが、何と北は北海道から南は九州までの小さな県の一つ一つに散っていって、初代の県立中学校の校長や教頭やただの教師をやりました。その代表的な何人かをご紹介いたしますと、後に総理大臣になった犬養毅も地方回りを中学教員としてしました。尾崎行雄もやりました。中上川彦次郎は伊予宇和島の県立中学校の教頭をやりました。やがて彼らは東京に帰ってまいりまして、今度は新しく官僚として、あるいは実業人として活躍を始めることになりました。
 政府が決めた大学は、八つの大学区が実際には実行不可能だということがわかって、7大学に再編制されまして、つくっていくことになったのです。それが今日の旧7帝国大学の七つと今の7学区が合っています。その第1大学区が東京です。その第1大学区の東京大学はいつできたかといいますと、明治の4年までは開成校、南校、東校と呼ばれるもので、南校が法学部の前身、東校が医学部の前身です。その東大法学部の前身、東大医学部の前身に多数の教員が福澤先生のお膝元から送り込まれていきました。何の事はない生まれたての東京大学の前身を支えていたのは、慶應義塾のメンバーたちです。
 これらは、明治10年に正式に東京大学という名前の大学になりました。何にも上にくっつかない東京大学。東京大学の初代の総長は加藤弘之という、これは松下村塾の出身者ですが、そのもとで副学長を務めたのは慶應義塾の出身者でありまして、浜尾新という人です。実は、今の天皇様の東宮侍従長は浜尾さんという方でした。この方は今の我が慶應義塾の大先輩浜尾新の子孫です。
 東京大学は、明治19年に帝国大学となりました。初代の帝国大学総長は渡辺洪基という人でした。この方は慶應義塾の出身です。慶應義塾で学び、後、福澤先生のご命令で米沢の中学の校長をやったり、会津の中学の先生をしたり、彼の出身地である福井の中学の先生をしたりして地方回りをさんざんやりましたが、帰ってきて東京府長になりました。今日の東京府知事です。当時も知事という呼び方はあったようです。その東京府知事渡辺洪基は在任中にしばしば三田へやってきて、幼稚舎の生徒に講義をしている。そのような記録が残っています。そして、彼は東京府知事をやめた後、帝国大学の初代の総長になりました。慶応義塾は総掛かりで日本の教育界をつくった歴史を持っています。
 その頃、明治4年から5年にかけて、日本には初めて大蔵省、外務省、内務省等々の16の省庁ができていきました。それは時にはどんどん分かれていきましたので、24に増えたり20に減ったりいろいろしました。この20前後の省庁の高級官僚のポストの約150人分ほどが慶應義塾の出身者で占められていました。この人たちは福澤先生の意を体して、できるだけおかしな政府にならないような方向で働こうと努力をしていたことが、いろいろな記録ではっきりしています。
 しかし、福澤先生の主張はどうしても当時の政府と対立せざるを得ませんでした。明治6年につくった明六社は、明治8年に解体命令が出されました。讒謗律ですね。このことに怒って、これではならないと考えた福澤先生は、この年、明六社を解体された明治8年に三田山上に演説館を建設されました。明治8年につくった演説館はもう100年を超えまして、重要文化財なんですが、いよいよ立ち腐れになる危険もありましたので、一昨年から昨年にかけて大改修工事をいたしました。そして、あと100年は間違いなくもつであろうという工事を完了いたしましたので、今は皆さんにいろいろな機会にまた使っていただくことができるだろうと思います。
 慶応義塾が三田山上に引っ越したのは何日かよくわからないんですが、慶応義塾が芝新銭座に引っ越したのは4月の23日ですので、今では慶應義塾は4月の23日を開校記念日として学校を休みにしています。この4月の23日に引っ越したというのは、あの日曜日の徳川慶喜公のテレビを思い出しながら想像してみると、大変な時期だと思います。もう江戸に官軍が攻めてきてどうにもならない状態になっている中で引っ越しをしています。それが証拠に、4月の23日からまだ20日ほどしか経っていない5月の15日、上野の山で戦争が起こりました。
 上野の山で戦争が起こったとき、福澤先生は浜松町の駅の近くの芝新銭座の教室で講義をしていました。使っていた教科書は、ウェーランドという人の書いた経済学のテキストでした。このウェーランドという人の書いたテキストを使っていたところ、学生たちが浮き足立って、「俺は上野の山に戦争にいきたい」と言う学生も出てきたようです。実は、ウェーランドという方はアメリカでは最も古い大学の一つ、ボストンからちょっと東へいったところにある海岸のプロビデンスという町にあるブラウン大学の総長でした。今でもブラウン大学の講堂に参りますと、講堂の一番正面の向かって左側の高いところに、大きなウェーランドの肖像がかかっています。
 ウェーランドのこのテキストを使って、戦争の最中、戦争というのは英語ではシビル・ウォー(内戦)と言うわけですが、外国の日本の歴史の教科書では、この時期のことをシビル・ウォー(内戦)と言っています。この内戦の最中にこの講義をしていたことは、日本でも知る人は知る。また、慶応義塾でも塾生時代はあんまり知らないんだけれども、卒業するとわかるようになる話なんですが、ブラウン大学では今日までこのことを忘れないでいてくれていまして、今年の5月15日のウェーランド記念日に、慶応義塾三田山上においてウェーランド講述の記念の講演会を開いておりましたところ、ブラウン大学の総長から祝電が届きました。「慶應義塾のウェーランド・デーあめでとう」と。それが彼らの電文です。我々とウェーランドの学校との交際は、こうして130年続いている。やっぱりこれはこの学校の凄さ、この学校を率いてこられた福澤先生の凄さだと思います。
 ところで、福澤先生は演説館をつくり、明治12年には交詢社をつくり、とにかく政府に対して発言をする場をどんどんつくっていきました。明治12年につくられた交詢社の発会式は、ちょうど慈恵医大の後ろに青松寺という大きなお寺がありますが、あそこを使って行われたようです。最初の会員が1,200人とも1,700人ともいわれています。知識を交換し、世の中の務め、政務を諮詢する、はかり事をする。知識・交換・政務・諮詢の「交」の字と「詢」の字をとって交詢社とする。これは、政府にとっては脅威でありました。
 また、その頃福澤先生は大隈重信公と手を組んで、福澤先生たちが理想と考えた政治をやっていこうとしました。もっと脅威であったのは「学問のすゝめ」です。「学問のすゝめ」が物凄い勢いで売れていったことが、政府にとっては脅威でした。「学問のすゝめ」は明治4年に初編が書かれています。明治4年という年には、福澤先生のふるさとの中津藩の藩主、殿様奥平昌邁公という方が、何と自分の藩の最下級武士の福澤諭吉がやっている三田の学校慶應義塾に塾生として入っちゃった。そして、塾生として学び終えた後、殿様は中津藩に中津県知事となって帰っていきました。今でも写真が残っていますので、本当はここへ写せるといいんですが、ぜひお見せしたい。素晴らしい若者の姿です。
 また、その頃福澤先生は大隈重信公と手を組んで、福澤先生たちが理想と考えた政治をやっていこうとしました。もっと脅威であったのは「学問のすゝめ」です。「学問のすゝめ」が物凄い勢いで売れていったことが、政府にとっては脅威でした。「学問のすゝめ」は明治4年に初編が書かれています。明治4年という年には、福澤先生のふるさとの中津藩の藩主、殿様奥平昌邁公という方が、何と自分の藩の最下級武士の福澤諭吉がやっている三田の学校慶應義塾に塾生として入っちゃった。そして、塾生として学び終えた後、殿様は中津藩に中津県知事となって帰っていきました。今でも写真が残っていますので、本当はここへ写せるといいんですが、ぜひお見せしたい。素晴らしい若者の姿です。
 その殿様は、中津藩に帰ると直ちに中津市学校という中学校みたいなものをつくろうとしました。そこで、福澤先生に教科書を書いてくれるように頼んでいる。福澤先生がお書きになった最初の教科書が「学問のすゝめ」です。中津の子供たち僅か二、三十人のために書いたこの「学問のすゝめ」という教科書は、何と三田山上の慶應義塾印刷所の記録で20万部売れている。相手は五、六十人いるかいないかというために書いた本なのに、20万部売れた。その頃の日本の人口は3,000万ですよ。今の人口は1億2,000万です。
 そこで、福澤先生は2編、3編と「学問のすゝめ」を書き継いでいって、17編まで書いたんです。その中で先生は、時には鋭く、時には穏やかに、時にはうまくオブラートで包みながら、当時の政府の考えが危ないということを訴えたんですね。先生のお考えを今ここで、もう時間がありませんからうんと要約していえば、日本は二つの危険に直面していると言うんです。一つは、大きな政府の国になる危険、官僚制度肥大の国になる危険だと言うんですよ。我々が今抱えている問題そのものです。第二は、日本は外国のいろいろな侵略や侵入を防ぐ能力を持ってない国だ。こんな危険な話はないと。これは我々が今抱えている問題ですよ。朝鮮からぶつ込まれても何にも言えない。全く同じ問題を今抱えているんですよ。それを130年も前に的確に言ってるんです。
 そして、それが政府にとっては「うるさい奴だな」という話になった。そこで、福翁自伝によれば、先生は明治13年の12月に大隈侯爵の屋敷に呼び出されて、行ってみたら井上馨だとかいろんな偉い奴がいて「福澤先生、あなたの言うことはもっともでよくわかった。もう黙ってくれよ。一緒にやっていこうよ」と、懐柔されたわけです。福澤先生の言うことはもっともだからと。そこで、福翁自伝の言葉をかりていえば「各々方がそこまで深くお考えとはつゆ知らず、きのうまではご無礼申し上げた」と、こう福澤先生はだまされて言っちゃったんだ。福澤先生は懐柔されたんですね。よっぽど先生悔しかったんですよ。だから、福翁自伝のあんな生き生きとした文章も、そこのところだけが、だまされたとは言いたくないから、「訳のわかんねえ話だった」と書いてあります。
 そして、それから10カ月後、明治14年の10月の半ば、大隈重信は筆頭参議の職を突然解かれます。慶應義塾が150人も送り込んでいた政府の中枢にいた官僚は全部外へ追い出されました。真っ先に追い出されたのは、例えば外務省では権大書記官中上川彦次郎、内務省からは犬養毅、尾崎行雄といった人々です。この日が、福澤先生が大きな政府になることを防ごうと言って闘い続けられた闘いが一たん挫折した日です。あれから118年経ちました。118年いろんなことがありました。日清・日露、第一次大戦も第二次大戦もありました。あらゆるものを乗り越えて全部それを覆うようにして、やっぱり日本は大きな政府への道を歩んできています。やっぱり日本は安全保障能力のない国への道を歩んできています。福澤先生のおっしゃったことは生きています。
 そして、福澤先生はこれを防ぐためにどうしたらいいかを、我々の母校の校訓として残しました。私たちにはそれが大事だと思うんです。これが、慶應義塾の建学の精神だと思いますので、今ちょうどいただいた時間30分が経ったんですが、あと5分勘弁してもらってお話しします。福澤先生は、この二つの危険、大きな政府の国・官僚肥大の国になる危険と国防能力のない国になる危険からこの国を守る道は何だかということを、次のように言っておられます。
 それは国民がそういうことを全部理解できるような知識水準になることだ。それには学問をしなければいけない。しかし、学問というのはよっぽど強い動機がないとできない。じゃ、その強い動機というのは何だろうか。その強い動機というのは、自分の家あるいは自分の国が人様の世話にならず、人様に邪魔されず、人様に介入されない独立した存在でありたいという強い願望だ。これ、「独立の精神」と福澤先生がおっしゃったものであります。もう一つ、自分の家や自分の国が本当にいい家だな、いい国だなと思えるような素晴らしい国、素晴らしい家を持ちたいという強い願望。これ、先生の言葉でいうと「自尊の精神」ですが、これがあればみんないい国をつくることができるだろう。
 後に、この独立の精神と自尊の精神という言葉は二つに合わさって、「独立自尊」という我々のスローガンになりました。私たちがずっと唱えてきた「独立自尊」という言葉は、こうして振り返ってみると、この国の正しいあり方についての慶応義塾社中全員の考え方を象徴している4文字だと思うんです。こういう鮮明な、鮮烈な建学の精神を持っている学校はほかにはないと思います。素晴らしい考え方を我々に残されたんだと思います。
 ところで、先生は今から約100年前、西暦1901年の2月の3日にお亡くなりになりました。1900年という年は19世紀の終わりの年です。今年は1998年ですから、今年の大晦日が過ぎて99年、来年の大晦日が過ぎて、再来年の大晦日、2000年の大晦日が終わると、そこでこの20世紀は終わります。2000年の大晦日が今世紀の終わりです。福澤先生は1900年の大晦日を「ああ、この世紀が終わるんだ」とちゃんと意識してお送りになりました。1900年、明治33年の大晦日、先生は世紀送迎会を催された。その頃、先生は一回脳卒中やってお体は不自由だったはずなんだけど、それを開かれて、そしてその席上、多分、それはもう間もなく除夜の鐘が鳴るという瞬間だったと思いますが、大きな紙に実に立派な文字で「独立自尊迎新世紀」という書を揮毫されました。これは慶応義塾に大切にとってあります。この書を揮毫され終わった瞬間が多分除夜の鐘が鳴った瞬間、ということは西暦1901年1月1日元旦の朝がきたんだと思います。明治34年の朝です。そして、それからちょうど1カ月と3日後の2月3日、明治34年、1901年の2月3日に先生はお亡くなりになりました。非常にドラマチックな、劇的な御逝去のされ方であったと私は思います。
 先生が残された「独立自尊迎新世紀」という言葉は人によって解釈はいろいろでしょうが、私は、さっきお話ししたように独立自尊という言葉を解釈するとすれば、先生が命をかけてこの国のあり方について問いかけた大きな政府の国になっていいのか、国防能力のない国になっていいのかという問いに対する答えはほとんど出ないまま先生の68年の生涯が終わり、日本は先生からご覧になって満足とはいえない方向に走り始めているのをご覧になりながら、世を去られたんではないかと思うんです。そんなわけで、我々に残されている仕事は非常に多いと思います。
 慶応義塾は、あと2年と数カ月で、その福澤先生の没後100年を迎えます。西暦2001年の、つまり今から2年と数カ月後の2月の3日には先生没後100年の記念の行事をしようと思っています。それに間に合わせるように、私たちはできるだけのことをしようと思っています。また、今から9年と数カ月いたしますと慶應義塾の創立150年がきます。これに合わせても私たちはできるだけのことをして、その時を迎えようと思っています。
 福澤先生没後100年のときまでには、三田の幻の門の改築が終わっているだろうと思います。多分、今年の暮れか来年の初めには着工できると思います。実は、幻の門の坂は東京都の道路の拡幅工事で途中で切られますから、あそこが私の身長ぐらいの高さの崖になっちゃうんです。しょうがないですから、あそこを全部平地にしまして巨大な門をつくります。そして、それのデザインは重要文化財の図書館そのものと同じデザインにします。そして、あの図書館のアーチと同じアーチ、もっと巨大なアーチですが、3階分ぐらいの高さの大きなアーチをくぐって中に入ると、半分ぐらいいったところで図書館が見える。同じレンガを使います。デザインを同じにします。上には9階建ての建物が乗りますので、4階から上はいろいろな研究センターや会議室やセミナールームや、いろいろのものができるだろうと思います。
 やがては、その延長線上で三田にはいろんな再開発が起こると思います。日吉にも新しい計画が進行中です。湘南藤沢の新しいキャンパスもまだまだいろいろやらなければならないことがあります。理工学部には大きな研究教育棟を約70数億で建てています。医学部の研究棟も長年の懸案でしたが、何とかして今年度中には着工の目途を立てたいと思っています。
 私たちがやろうとしていることは、教育の改革、研究の改革です。教育も研究も、きょうは時間がありませんからお話しはしませんが、本当に素晴らしいものに改革していこうと思っています。同時に、慶應義塾が外の世界に向かってその成果を大いに発信できる学校にしていかなければなりません。そのために今、学内のあらゆるキャンパス、幼稚舎から大学までのすべてのキャンパスを情報スーパーハイウェイで結ぶ計画がほぼ完成しつつあります。医学部には、卒業生の方から50億という大きなご寄付をいただいて資金ができましたので、ノーベル医学賞の先をいく慶應医学賞が生まれてもう既に3年目に入っています。第1回の慶應医学賞の受賞者プルジナーという方は、慶應医学賞を受賞された次の年にノーベル医学賞を受賞されました。慶應医学賞の第1回のもう一人の受賞者の京都大学の中西博士という方は、その次の年に恩賜賞と学士院賞をお受けになりました。昨年第2回の慶應医学賞の受賞者たちワインバークという、これはMITの方ですが、この方も今年のノーベル医学賞の候補に上がっています。今、私たちは第3回目の候補者2人をお選びしたところで、もう間もなく新聞にそのお名前を発表できると思います。
 私たちの慶應義塾は、日本の444の私立大学、国立大学99校、公立大学61校、全部合わせて604校、放送大学を入れると605校の中で一番生き生きと輝いて歩いていると思うんです。どうか、母校を楽しみにご覧になり続けていただきたい。そして、この三田会の集いが行われるとき、何よりも一番皆さんに喜んでいただけるような、「俺たちあの学校出てよかったな、慶應義塾で育ってよかったな」とつくづく思っていただける学校にすること。そうすれば、そのことが皆さんの生涯にわたる睦み合いの一番大きなつなぎ手になるんだと、私はそう思っています。
 どうかこの品川三田会が末永く素晴らしい睦み合いを続けてくださることを改めてお願い申し上げまして、私のきょうのご挨拶にいたします。ありがとうございました。

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